亀田の町と亀田縞

江戸時代,元禄九年,木綿織(後の亀田縞)が生産開始とされています。当時,和綿栽培の北限となっていた亀田を中心とする農村地域で,冬場の内職で農家の自給用として織られるようになりました。

中谷内新田(後の亀田町)は水深く,米の生産に適さなかったことと,新潟湊と内陸との交通の要衝であったことから,元禄七年に六斎市を開くために埋め立てられ,亀田の町が誕生しました。木綿織はその二年後に生産が開始されたことになります。

寛政年間に,木綿織が亀田に運ばれ,売られたのが「亀田木綿織」の最初とされます。

その後,亀田縞を織る農民は,それぞれの取引で問屋へ製品を持参し,問屋は消費地の仲買人や亀田の六斎市で販売していたとされ,農家と問屋の系列化による問屋制家内工業の仕組みができていきました。

 

亀田郷の米づくりと農民の暮らし

芦沼と呼ばれた湿地帯

亀田郷は,日本屈指の大河,信濃川と阿賀野川と,これを結ぶ小阿賀野川に囲まれた地域で,かつては広大な低湿地帯でした。人々はこの地を地図にない湖「芦沼」と呼びました。

地図にないのは,この湖がこの地の農民にとって農地だったからです。ここで暮らす農民は,水底に没した農地を少しでも浅くするため,寸暇を惜しんで水路から鋤簾で泥を掘りあげ,舟に積み,農地に運び込みました。

田植えの季節の,まだ冷たい泥水に腰や胸まで浸かり,泥の中を泳ぐようにして苗を植え,収穫の季節になれば,すっかり冷たくなった泥水に腰まで浸かり,稲を刈り取っては小舟に積み,運搬していました。

幾度とない苦難を乗り越えて

繰り返し訪れる水害や,海から遡る塩水のため,ようやく実りを迎えた稲が腐ってしまうことも度々でした。そのような時の農民の悲しみには計り知れないものがあります。それだけに収穫の喜びも,またひとしおであったに違いありません。

作家,司馬遼太郎氏は亀田郷の米作りを「農業というものは日本のある地方にとって死に物狂いの仕事の連続であったように思える」と「街道を行く~潟のみち」で紹介しています。

亀田縞は,このような過酷な米作りを支える農作業着として,私たちと同じように日々の暮らしを精一杯生きた農民たちの,日々の喜びや悲しみを包み込み,大地の恵みのなかから生まれたのです。