亀田郷の米づくりと農民の暮らし

芦沼と呼ばれた湿地帯

亀田郷は,日本屈指の大河,信濃川と阿賀野川と,これを結ぶ小阿賀野川に囲まれた地域で,かつては広大な低湿地帯でした。人々はこの地を地図にない湖「芦沼」と呼びました。

地図にないのは,この湖がこの地の農民にとって農地だったからです。ここで暮らす農民は,水底に没した農地を少しでも浅くするため,寸暇を惜しんで水路から鋤簾で泥を掘りあげ,舟に積み,農地に運び込みました。

田植えの季節の,まだ冷たい泥水に腰や胸まで浸かり,泥の中を泳ぐようにして苗を植え,収穫の季節になれば,すっかり冷たくなった泥水に腰まで浸かり,稲を刈り取っては小舟に積み,運搬していました。

幾度とない苦難を乗り越えて

繰り返し訪れる水害や,海から遡る塩水のため,ようやく実りを迎えた稲が腐ってしまうことも度々でした。そのような時の農民の悲しみには計り知れないものがあります。それだけに収穫の喜びも,またひとしおであったに違いありません。

作家,司馬遼太郎氏は亀田郷の米作りを「農業というものは日本のある地方にとって死に物狂いの仕事の連続であったように思える」と「街道を行く~潟のみち」で紹介しています。

亀田縞は,このような過酷な米作りを支える農作業着として,私たちと同じように日々の暮らしを精一杯生きた農民たちの,日々の喜びや悲しみを包み込み,大地の恵みのなかから生まれたのです。